20.5.15
テンションの上がらない日だったから、ゲスの極み乙女の曲を聴きながら通勤した。
川谷絵音の言葉のセンスは本当にすごいと思う。彼の使う言葉は決して直接的ではないのにそのものをしっかり射貫く。
メロディーももちろん良いんだけど、正直彼の作る曲はわたしにとって文学のような感じが強いので、聴くというより読むように楽しんでいる。
最近のアルバムもすごく良くて、「私以外も私」ってすごい言葉だと思った。
彼らの曲には、有名な「私以外私じゃないの」があるが、それは人間の感覚のステージでいうと序章という感じがしていて、「私以外も私」は本当に真理だなと感じた。全体の歌詞は別にそういう事を書いてはいないんだけど、「私以外も私」という言葉がわたしの中ですごいタイムリーで非常に刺さった。
昨日も似たような事書いたけど、自分というものの存在が他人に依存していると感じるけど、それってめちゃ面白案件だなあと思う。
それそのものでは無いものがそれを作っているのなら、それそのものって一体何なのだ?
それそのものも他の何かの構成要員でしかないのか?
わたしがわたしであるという事の証明は、わたしではできないって変だけどそれが「存在する(した)こと」なんだろうな。
失って初めて気が付く、みたいなのよくあるけどそれに近いかも。存在している時よりも存在が無くなった時に存在が強くなるような。
もう死んでしまった人に会いたいと感じるし、ずっと前に捨てたスカートに似合いそうなTシャツを買ってしまうし、閉店したお弁当屋さんの跡地を目印に道路を走る。
それと同じように、わたしではないものでわたしが作られ、強化される。
上手くまとまらないな。
わたし以外こそわたし。と思う。
そもそも八天堂がわからないから何もわからなかった。
八天堂が来るぞ~と思って食べていたけど、なんかよくわかんないうちにめちゃくちゃ甘いものが口を通過して行って、今の!?今のがそう!?八天堂!?今通った!?ってなった。F1みたいだった。