日記帳

日記をつけます

20.5.9

 

 



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職場で使っているマヨネーズが無くなってきた。

 

ちゃんと名前を書いている。

 

 

職場の冷蔵庫、みんなが自分の使いたいものや食べたいもの、連勤のご褒美などを思い思いに持ってきて入れているのでさながら「ご家庭」といった様相を呈している。示し合わせなくても1人1つないし2つものを持ち寄るだけでご家庭感がでるのも不思議だな。全然被ってない。

生鮮食品だけ買ってきて、あの中にあるものだけで調理して食べろと言われたら結構ちゃんと料理ができる気がする。

 

 

夜、NHKでヱヴァ序が放送していた。

公開当時わたしは中学生で、友達と映画館へ行ったのを思い出した。

当時のその時期わたしは別に誰に課されていたわけでもないけど絵日記をつけていた。

ちゃんとジャポニカとかを買って。

そこに友達と映画を観に行った事も描いていたなと思い出していて、よく考えると過去の自分の絵日記は、自分から見た今日の出来事ではなくて、今日の出来事の中にいる自分を描いていたなと思った。

毎日毎日飽きることなく「何かをする自分」を描いていた。よく考えたらおかしな話だけど、アイスを食べた日の日記は、食べたアイスの絵ではなく、アイスを食べる自分の絵だった。いや絵日記って本来そういうものか?

というか、今もしも絵日記をつけろと言われても、自分の絵は描かないと思う。自分しか見ない絵日記だったとしても。

なんでそんなに自分ばかり描いていたのかなと思ったけど、多分アイデンティティを獲得しようとしていたのではないかなという考えに至った。

自分という物の善し悪しや価値、視点抜きに、純粋に「この世界に存在している自分というもの」というバカデカいアウトラインをスケッチしていたのではないかな。

調べたけど中学生くらいの時期ってそういう時期らしいね。自己を獲得しようとして、自分込みで感覚や出来事を記録していたのか?だとしたらそれが形になって残っているのかなり面白いな。ただ内容や文体がひどすぎるから到底人に見せられたものでは無いけど。

自分の観察記録を読んでいるようで面白いけど、意図的にできる事ではないからもうできないと思う。

そうやって自己を獲得したことで、自己を通してものを見る行為を獲得しての今なんだろうな。今つけてる日記はわたしが見たものや感じた事でできている。

 

日記はつけとくと面白いなということ。

 

ねむい。